Blog岳道を行く

坂の上の天文台

10/13、一朶の雲ではなく秋らしい筋雲であった。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

スマホでコリメート撮影(うまくいかなかったが黒点ははっきりと)

 

 

 

 

 

 

 

 

説明員の方に懇切丁寧に教えていただいた。

 

国立科学博物館HPより

曽根隕石は1866年(慶応2年)6月7日正午過ぎに当時の丹波国曽根村(現在の京都府京丹波町)に落下した。大砲のような音が2回あり、麦畑に土煙を立ててたと記録されている。曽根村近くの村の代官であった高木家に保管されてきたが、昭和41年に博物館に寄託された。その後、京都府に寄贈されている。Hグループの普通球粒隕石である。

 

左の写真は曽根隕石のレプリカ

 

 

 

そして「坂の上の雲」と今の日本

一朶の雲を目指した秋山兄弟と富国強兵の日本。日露戦争の勝利が太平洋戦争勃発までの日本の軌跡に大きく影響したと司馬遼太郎は説く。

日いづる神の国のやることは正しいと唯我独尊だった日本、自国の利益のために戦略を駆使する欧米。昭和16年12月8日は日本の歴史の大汚点となってしまった。近隣諸国や日本国民への軍の大罪の回顧とともに、なぜ開戦に至ってしまったのか、二度とこのような犠牲を出さないようにするために考え続ける必要がある。

考える命題は多岐にわたるようだ。明治憲法の解釈の捻じ曲げ=司法権、立法権、行政権を超越した統帥権なる「魔法の杖(司馬遼太郎による)」を生み出し軍部が暴発、メディアも迎合的もしくは扇動する記事を強いられた、封建制の負の側面に根付く国民性、などなど。統帥権による妄想の戦略が唯我独尊に染まり、弱い国民も迎合せざるを得ない時代でもあったが、これで考察が終わると未来につながる分析にはならない。封建制に関しては、海に囲まれ外敵が少なかったがためであろうか、中国や欧州の封建制とは趣を異にしているらしいが、我々日本人には、過去の封建制のルーツなのだろうか、いわゆる「飼い慣らされ」のDNAが沁みついているように感じられる。「出る杭は打たれる」などの諺は、そのニュアンスとしては日本にしかないらしい。最近の若者の政治参画への意識は高揚されているが、国民全体は政治に関心が高いとは言い難い。選挙での投票率の低さなども「飼い慣らされ」の証左だろう。このことを革命で獲得した民主主義か否かで分析する人もいる。

戦略思考で欧米との差を抽象的に考えれば、「明日は太陽が出るか否か」で考えそこで思考停止に至る日本、「黒点を分析してまで戦略を考える」または「地球上のどこでどのように太陽を見るかで戦略を考える」の欧米、極端な言い方ではあるがこの差のようにも思える。たとえば、B29はアメリカの航空母艦から発艦はできても着艦はできない、だから日本には来れないと考えた日本軍部だったが、アメリカは発艦し爆撃後は中国に着陸すると発想した。チャーチルとルーズベルトが共産国家封じ込めのためにヒトラーを活用しようとしたことも、日本の真珠湾攻撃までのあらすじも戦略の発露のようにみえる。農耕文化の日本人がコメを収穫し箸を器用に持つように、狩猟文化の彼らは狩猟時の相互連携が日常茶飯事で鍛えられている。日本は戦略議論は会議室でと考え、欧米は食卓でと考えている。このことは海外企業との会議でも感じたことがあった。日本人の箸を持つことと欧米人の戦略を考えることはほぼ同次元の活動レベルなのだ。

司馬はさらに云う。「昭和初期、絹産業程度が主力だった日本が、資源の輸入体質から脱却するため海外へ進出していく、すでに強国であった列強の工業力には比べるべくもない」にもかかわらずなぜに戦争に走ったのか。司馬もよくわからないとしながらも、神の国が負けるはずはないと錯覚したのだろう、とのことである。明治維新から急激な富国強兵、そして日露戦争でのバルティック艦隊撃破、過去には元寇での神風による撃退・・・確かに錯覚の要因はあった。問題は、太平洋戦争開戦でも冷静な分析ができる将官がいたにもかかわらず、何をかいわんや、で論理が撃破されたことだろう。

無謀な暴走に向かわせたのは何であったか。そのマインドは何であったのか。現在に生きる我々も考えるべき命題である。同じ過ちは繰り返さないにしても、封建制の負の側面に根付く国民性「飼い慣らされ」癖が消えたわけではない。その証拠に平和を訴求する国家になった近代でも、1985年のプラザ合意以降の低迷は「飼い慣らされ」による過ちの結果と考えるべきだ。「一朶の雲」の物語は、当時の世相を反映した日本のバイタリティの象徴であるが、それのみで世界とコミュニケーションできるわけではないことを忘れてはいけない。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

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Rhapsody on Paganini

今年は、ラフマニノフ生誕150周年だそうで、Youtubeでもラフマニノフの特集がにぎやかである。中学時代の恩師大崎栄子先生のご自宅に友人数名でなんかの流れでお邪魔したことがあり、それまで食べたことがないようなカレーライスをご馳走になった。そのときにかけていただいたレコードがチャイコフスキーとラフマニノフであった。天性の音痴だったので音楽は得意とは言えなかったが、その時以来よくクラシックのレコードを聴くようになった。

ラフマニノフはピアノ協奏曲をそのときは聴かせていただいたが、数々の名曲があることを知り、なかでも表題の日本名「パガニーニの主題による狂詩曲」のうち第18変奏(アンダンテ・カンタビーレ)はCMでも使われ、目を閉じれば壮大な景色が瞼に広がる曲である。

で、Rhapsodyは英辞郎webによれば「吟遊詩人によって歌われた叙事詩」とあるが、それがなぜに狂詩曲と訳されるのか、抒情曲のほうがいいような気がするのだが、不思議に思った。

調べる力はないので、ここでこそChatGPTさんに相談だ。

Q:ラプソディはなぜ狂詩曲と訳されるのか

A:「ラプソディ(rhapsody)」という言葉が「狂詩曲」と訳されるのは、その語源と歴史的な背景に起因しています。以下に詳細を説明します。

語源: ラプソディ(rhapsody)は、古代ギリシャ語の「ῥαψῳδία」(rhapsōdia)から派生した言葉です。このギリシャ語の語根「ῥαπτός」(rhapto)は「縫う」や「結ぶ」を意味し、「ᾠδή」(ōdē)は「歌」や「詩」を意味します。つまり、「ラプソディ」は文字通り「詩を縫い合わせた歌」といった意味合いを持っています。

ギリシャの伝統: 古代ギリシャでは、ラプソディスト(rhapsodist)と呼ばれる詩人が、叙事詩や詩的な物語を口頭で語りながら詠唱する伝統がありました。これらの詩人は、長編の詩や物語を断片的に歌い、その中で異なるエピソードや話の断片を結びつけ、一つの物語として繋げる役割を果たしました。このような伝統的な方法から、「ラプソディ」は詩や音楽の繋がりを強調する言葉として捉えられました。

文学と音楽の融合: ラプソディは、詩と音楽が組み合わさった形式であり、古典音楽の一部としても知られています。この形式では、詩の朗読や歌詞が音楽と調和して表現され、感情や物語性が豊かに表現されます。したがって、「狂詩曲」という訳語は、この詩と音楽の融合を表現するのに適していると考えられています。

総括すると、ラプソディが「狂詩曲」と訳されるのは、その語源やギリシャの伝統、文学と音楽の融合など、さまざまな要因が影響しています。この言葉は詩と音楽の組み合わせを示す用語として広く受け入れられています。

 

ChatGPTさんありがとうございます。検索の高速化に大変役立ちます。(論文など書く場合は出典情報の書き方要注意)

 

依然、「狂」という文字が入ることに違和感があるのだが、これもYahoo知恵袋さんに勉強になるQ&Aがあったのでここにリンクを貼っておきます。

狂詩曲という言葉にはなぜ「狂う」という漢字が使われているのですか? – 狂… – Yahoo!知恵袋

 

 


書とジェームス・モリソン

小学校時代に通っていた書道教室「天真」と同じ教室に通っていた友人の作品が毎日書道展に展示されているというので行ってみた。友人は大成し現在も書道家の道を歩んでいる。自分自身は、習字そのものは好きであったが、基本的に父の勧めで通い始めた。行けば友達がいる、ぐらいのモチベーションだったかもしれないが「払い」がうまく書けるようになった時の感動は覚えている。

小学校から高校でも習字の授業があった。書の気とか心を感じるというよりは、技量というプロセス、出来映えというゴールが主な目的であったような気がしている。が、書道を究める人たちは、曰く「守破離」の道を歩むものらしい。書道展では多くの作品があり圧倒されたのだが、書道家の気を感じることはあれ、その技量を感じるなどは口に出すのもはばかられる。歩いていると、見学者からの「濃淡が・・・」などの話を小耳にはさんだが、たとえば濃淡に込められた作者の意図がなんであるかまではわからない。

自分なりに感じることをベースに気取って言えば、意図というよりは波動である。道を歩む人の人生や気概を感じ、文化とか伝統との対話を感じ取ることで作者と鑑賞者の間の多種多様な心の波動につながっていくようなものかもしれない。

別の芸術であるが、風景画家のジェームス・モリソン、以前から好きな画家であったが、ドキュメンタリー映画「Eye of the storm」でも感動的な制作過程をみることができ、おりしも鑑賞してきた書の世界に通じるものを感じた。特に、雲の描き方に連想させるものがあった。ちなみに絵筆(ブラシ)はフランスの専門店「Sennelier」で購入していたそうである。氏は絵筆に関して「(こういうものが欲しい)形状を維持できる・・・瓶一杯の油に浸しても形を保つような。」と語っていた。書道でもくだんの友人曰く「弘法筆を選ばす、にあらず、えらぶんです」と言っていたが、波動を伝える筆という媒体も心技体の一部なのだろうと思った。

私が取り組んできた電子工学、集積回路技術にも「これは芸術か」と思える世界がある。もちろんそこには、平賀源内でもないので筆などない。あるのは、回路図(設計図)と結果として出るデータと熱雑音など見えない世界との「せめぎあい」である。回路動作とトランジスタ内のキャリアのふるまい。エンジニアにとって楽しい世界である。芸術的な回路技術としてはSwitched Capacitor FilterとLeapfrog Filterが最も印象深い。回路技術の中でも上級中の上級クラスの回路構成で、Leapfrog Filterは一度集積化に挑戦したが、半導体素子の高周波特性により回路全体が発振して日程制約もあり量産化は及ぼなかった。(Switched Capacitor Filterは量産化に成功している)

芸術と工学、立場は違えど、哲学と科学が同じ精神世界で語られたようなものも見いだせる。自分の右脳の一部のシナプスだけが喜んでいる気もするが、何かを発見というか感じ取ることができた喜びではある。


木星探査機とK-PAX

木星探査機が打ち上げられた。2031年に到着し、エウロパ、ガニメデ、カリストの3つの衛星で地球外生命の探索などをするそうである。衛星を周回しながら探査機から衛星の地表までの距離を計測することで衛星内部に深い海があるかどうかわかるらしい。木星との間の潮汐でゴムボールのように”ぶよんぶよん”するらしい。地球と月との関係で発生する満潮・干潮が、木星の衛星の地底で起こって地表に影響が出るとのこと。地震で地面が動くのは理解できても、固い地面がぶよぶよとは不思議極まりない。

この打ち上げにあわせて、ケビン・スペイシー、ジェフ・ブリッジスが共演する映画「K-PAX光の旅人」を観た。20年ほど前にも観たが、ジョディ・フォスターの「コンタクト」と並び宇宙系で最も好きな映画だ。ケビン・スペイシー扮する琴座K-PAXという惑星からきた宇宙人は、あるトラウマを抱えた人の肉体を借りて地球の状況を報告するのだという。もっともこの「肉体を借りて」と「トラウマ」は最後のほうで判明する。家族、コミュニティ、社会規範などもないK-PAX人が、家族を不当に奪われた人にいわば憑依するわけだが、その言動が人類の現在地を問いかける映画だと感じた。

つまり、K-PAX人は、人間関係すべてにドライで社会規範など不要で、地球人がなぜいろいろ争っているのか理解できないようである。この姿が地球人とは対極にうつるが、地球上のさまざまな紛争を乗り越えてこの世界へ行きつけるのかは疑問である。しかしながら、浦道を巡ればふとこのK-PAX人の在り方に共感が生まれるのかもしれない。表通りの喧騒から離れてふと裏通りに入りたくなるのもそうなのかもしれない。

この映画、欧米人の感じ方と日本人の感じ方とでは違うのだろうか・・・


森守一先生のこと

中学2年の時の担任の先生であり3年間社会の授業を受けた。厳しい先生という印象が強く、担任になったときやや緊張したが、生徒の努力を讃えることに余念がない、という思い出もたくさんあった。

中学3年の社会の授業の時だった。
「きょうどう」生活という熟語が出てくる場面があり、先生は「協同」生活と黒板に書いておられた。後日テストで、この熟語を求められる虫食い問題があり、協同生活、と書いた。ところが、先生は×をつけられたのだ。共同生活、が正しく、間違って黒板に書いてしまったと詫びておられた。にもかかわらず、テストを返してもらった時私は生意気にも食い下がってしまったのだ。教えられた通りに書いたのだから正解だと。交渉の結果、半分の1点をもらった。しかしながら後々にこの食い下がりに自分の次元の低さを思い知らされることになる。先生は、間違いで教えてしまった、その字に点をくれ、、、そんな次元でしつこく戦う私に呆れておられたのか、苦笑いではあったが、、、

その数週間ぐらい後であったと思うが、授業中、ある質問に手をあげて答えてドヤ顔でもしていたのだろう、私に唐突な言葉を投げられたのだ。
「〇〇、僕は将来君のことは忘れるかもしれないが、R.Mのことは一生涯忘れないと思う。彼は学校に来ても何一つ理解できない、でも毎日学校に通ってくる、この価値、君にわかるか」
R.M君とは今で言う知的障害の生徒であった。

通っていた中学の先生方にはそれぞれに貴重な思い出がある。本当に現在の自分の血となり肉となっている経験ばかりだ。この中でも、森守一先生のこの言葉は、その時の自分には意図が理解できないものであったものの、後に「努力の本質」というものを教えていただいたのだと気が付いた。

当時、将来はNASAで勤務したいという夢があって頑張っていたつもりではあるが、そんな私に先生はR.M君の話しをされた。はっきりとはおっしゃらなかったが、        

「点数よりも、どんなことでも一生懸命継続していることに目を向ける人間であってほしい」                                               

このことを学んでほしかったのではないかと思うのである。

勉学を通じて人としての在り方も教えていただいた。教育者の真髄をみたように思う。

 


有朋自遠方来

はるか昔社会人となり、VTR用半導体開発時代から後年のインドR&D運営時代まで、それぞれの時代にゆかりの友たちと宇治へ紅葉狩り。近くに住む人たちであるが、過去という遠方から来た、そんな気がするひととき。激動の時代を経て、凡庸なラジオ少年がここまでこれたことに感謝する静かな時を過ごす。

曹洞宗仏徳山 興聖寺

 

 

 

 

 

 

 

 

宇治平等院

 

 

 

 

 

 

途中、宇治川上空、夕日の下を鷺が横切り、平等院で我々の前に立つ(*)。「自遠方来」

 

 

 

 

 

 

遠くから来て一休み。鷺は何想う・・・

 

(*)宇治川で飛んでいた鳥が平等院池に立つ鷺と同一かどうかは確証なし


S.A君に捧ぐ

2022年11月19日、神戸市須磨区にある萩の寺へ、40年前26歳の若さでこの世を去った友が眠る墓に行った。中学の同窓4人で在りし日の友の笑顔を偲んだ。

中学3年の時1年間隣り同士で、彼は「クラスを盛り上げるにはどうしたらいいか」「目安箱おいて意見吸い上げよう」などなど常に視点が高く、さりとて居丈高なところもなく周りを気遣い笑顔の日々だった。なんというか、尊敬の念を超えて、同級生の彼から多くの薫陶を受けた気がしている。今も忘れないエピソードがある。

ある日、M先生の大切なお手製の教鞭をふざけて壊してしまい、先生から「代わりの持ってきて」と言われた。静かに言われたので応急的なものをと勘違いしていた。翌日工作用の細い角材を持参したがM先生は激怒された。結果的に礼を失するものであったが、まさかの激高に思わずその場から逃亡を図ってしまったのだ。怒る先生は、逃げる私を追い廊下で大声を上げて叱責された。そこに教室の中から彼は飛び出し「明日自分が作ってきます!許してください」と自分のことのように詫びたのだ。人を想う包容力とはこのことだと、のちのちに思い出す出来事だった。

彼は、卒業文集の短文寄稿にこう記している。

「人間とは、人生とは何か。よりよい人間向上 これのみが僕の願い僕の人生。」

齢15歳、亡くなる前10年余のときの文章である。小学校時代からの意識の高さなかりせばこのような文にはならなかっただろう。高校時代には会ったが、その後長く連絡を欠いたことを悔いた。

そしてこの稀有の大器を早々に失ったことが残念でならない。

 

<追悼の詩>

須磨萩の寺に集う友垣
碑に刻む君の名に涙す
惜別の情さやぐ西の空
薫陶を与ふ笑美を見ゆ
相寿く大器の志を胸に
菅の蓑を纏い長き道を
歩み続けん

高取山を背に絆を想い
歩み続けん

 

 

 

 

 

 

小中学校時代の同級生であり書道家である宮崎恵煌先生の揮毫

(天に届け、の思いで揮毫いただきました。ありがとうございました)

 

 

(補遺)M先生は、夏休み、修法が原へ数人でハイキングに行ったとき、帰り道、パン工場の前で突然「見学しよう」とおっしゃった。工場の方もビックリされたようだったが、見学させてもらった上に出荷前出来立てのパンをお土産にいただいた。M先生のこの行動力、やってみよう精神はその後の人生に確実に生かされたと思っている。


国破れて山河あり

国破れて山河あり、あまりにも有名なフレーズである。コトバンクでは「戦争によって国が荒廃してしまったことを嘆くことば。また、人間の愚かな営みが、自然の前ではいかに無意味かを表すことば。(中国の杜甫の「春望詩」から) 」とある。明治維新、太平洋戦争敗戦、などなどこの言葉で語れる歴史上の出来事が日本にもあり、軍事クーデターなど外国にもたくさんある。家族や家を失い絶望の想いで山河を眺める当事者の心情には察して余りがある。これら以外でも、パンデミックや現在進行中の地球温暖化も、戦争で荒廃したわけではないが、「国破れて」と形容されそうな事象がある。「山河」を頭に浮かべて「国破れて」を未然に防ぐことが求められているのだろう。

加えて、’自由民主主義 vs 専制主義’や’過激な宗教間の対立’も「国破れて」で語られる日が来てしまう気がするのである。中国は「アメリカは民主主義の押し付け」と非難し、西側は逆に「非人権国家」「不法領土主張」などを非難する。お互い正義は我にありと云うのである。自由往来の世界、障壁無き経済連携、は本当に正解なのか、と考えさせられてしまう。国連はなんのためにあるのか・・・地球は一つの主義主張で自転しているわけではなさそうだ。

「山河」に住み「山河」に根ざした国際協調のカタチを目指せればいいのだろうけれど難しそうだ。中世の欧州勢の進出や150年前日本はなぜ開国に応じたのか、その理由を掘り下げれば山河に根ざせない人類の煩悩が見えるのかもしれない。もうひとつ、経済成長が続けば脱炭素など到底なしえないと説く学者もいる。グレタもそのひとりなのかもしれない。経済成長をやめようという国際協調はできるのか。煩悩の国際化は今に始まったことではなく、経済成長を始めた産業革命それ以前からのものである。縄張りの縄を製造を止めるにはどうすればいいのか。うーーん


時空のゆがみ?

この球体の連続のようなモニュメントは、兵庫県朝来市の「あさご芸術の森」にある。

近所には「播磨ふれあいの家」というハンデの方にもやさしい部屋をもつ宿泊施設があるが、コロナの影響だろうか残念ながら閉館となっている。近所には竹田城址があり、宿のご主人は親切に雲海が出る条件など教えてくださった。

写真は、撮影者(私)の姿が3体も・・・は不思議ではないが、宇宙空間には、光が重力で曲げられて遠方へ飛び、また曲げられて元のところへ帰ってくる、ようなところが無数にあるのだろう。それで・・・続きはまた


津々浦々

全国に鉄道網が敷かれる前は、海上交通の要所が栄えてきた。

ある識者は「地方活性化の切り札は新幹線」とおっしゃる。交通の要所に「賑わい」が持たされるのは間違いないと思うし、交通は地方活性化必要条件であろう。でもこれだけだろうか。十分条件は何だろう。多くの地方活性化の取り組みがある。これらの持続性も考える必要もある。

欧米では、脱炭素も大事ながら持続性を重んじる人が多いらしい。日本も持続性に異を唱える人はいないだろう。でも問題は優先順位の決め方。これには文化的背景もありそうだ。

持続性、、、社会の大きな課題もさることながら、自分自身がみつめてきたものを振り返ることで考えるヒントが増えるかもしれない。それは宇宙、電子技術、そして育った環境などであるが、それらの関連施設や土地を訪ねることがこの「浦道を行く」のテーマである。交通の要所が栄えることは生活のための経済基盤がモチベーションであるが、交通が不便でも行きたいところに人は行く。そして新たなモチベーションを後世に伝えていくものだろうと思う。

経済成長が炭素社会を生み出し、社会生活の足かせになってる、と論ずる識者も出てきている。(e.g. 人新世の「資本論」(斎藤幸平著))持続性とはいったいなんであるか、単純に語れるものではないようだ。

神戸、名古屋、大阪、京都、川崎、横浜、イギリス、インド、に住んできた。津々浦々で見てきたことをここに書いていきたい。

 

 

 


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