半導体奮闘記

プラットフォーマー

日本の半導体事業が最も不得意とする(ようにみえる)のは、プラットフォーム志向のビジネス戦略である。

半導体事業における競争源泉はデバイスと製造技術にある、このこと自体が間違っているとは思わないし、多くの識者がこの観点で日本の半導体事業の盛衰を分析していることは価値あることと思われる。なかには、なぜ高品質にこだわってしまったか、の分析もあり筆者も十分うなずける。

問題は、ビジネスの進め方をデバイスや製造技術中心に考え、他の競争源泉には考察に至らない傾向があることだ。


インドにて

半導体事業部門、本社R&Dでの半導体開発組織から離れて、2011年4月からインドへ赴任することになった。新規R&Dの立ち上げと新たなR&Dテーマを掘り起こすことがミッションであった。

赴任前から山崎豊子著「沈まぬ太陽」の恩地元の姿が脳裏によみがえった。日本で恩地のようにパワハラを受けたわけではなく、比べるべくもないだろう。しかしなんかパターンが似ている。半導体時代のかくあるべきと戦った日々からインドR&Dセンター所長へ、むしろ自分を知ってくれる人たちや人事の配慮と意気に感じ会社に貢献しようと思ったものだ。

本社R&Dの立場ながら、人事や経理などインフラ面でお世話になっているインドの販売会社からの要望も聞いてほしい、と日本側から要請されていた。インドの状況を聞くコミュニケーションのネタでもあるのでいいのだが、販売会社のビジネス志向とR&Dとしての中長期志向との板挟みが予想された。形を変えて、半導体事業で経験したことと同様の命題をつきつけられ、なぜこんな状況にばかり身をおくことになるのだろう、と苦笑の毎日だった。しばらくは方法を考えもしたが、3か月後にはまずは当初やろうと決めたこと環境、エネルギー、ヘルスケアでのR&Dテーマ探しを押し通すことにした。インド販売会社の要望は、日本の事業部からの開発派遣者や出張者が受けて検討すべきと考え都度対応が妥当と考えた結果だった。

販売会社の支援を得ながらも新規組織なので、複雑な会計処理のルーティンなども自分で考えなければならない。人を雇ったとはいえすぐに立ち上がるわけではないし、慣れないインドの法律に基づく企業内会計なども勉強しなければならない。IITなど技術系大学との人脈作りも急務だ。ボーっとしていれば月日はあっという間に過ぎる。販売会社の立場からすれば、日々出る新規ビジネスアイデアを技術者視点で咀嚼し、司令塔として当該事業部へつないでインドでの事業化に貢献してほしい、であったようには思う。問題は、何もかもできるわけではない、ということだ。きちんと日本側開発部門や企画部門に伝えるには腰入れて検討する必要がある。

ただ実質的なキャパの事情とうまくこなす能力はわけて考えないと進歩はない。立場が違う者同士のすり合わせ力はどう培えばいいのだろうか、これが、半導体の仕事をしたわけではないこの期間での命題にもなり、日本の半導体事業衰退の要因として考察する価値があるように思っている。「うまくこなす」に関して自身の能力の問題もあるので特効薬を期待するべきではない。あえていえば人間関係を構築しながら時間かけてMission & Valueの議論を進めるべきではあろう。ただし、前線販売部隊の要望を本社R&D部門として受け取るには、お互い相手の立場を理解する議論の場が必要である。そもそも短期と中長期とで位相が異なるわけであるし、大前提としてはお互い未経験の職域にはリスペクトの念をもって接するべきだ。これを経ずに「主従関係の錯覚」なるものを行使されれば、正論不明の「ボタンの掛け違い論」で決着しようとする傾向がある。

ここで、議論や位相のずれを埋め合わせる「すり合わせ」について考察してみる。

日本企業は、藤本隆宏著の「ものづくりの経営学」などを読んでも自身の経験からも、モノづくりにおける「すり合わせ」が必要な分野は長けているといわれ自身もそう思う。でも本当にすべての局面でそうなのだろうか。ものづくりといういわば明快な目標の中では得意でも、ひねられると必ずしも上手ではないのではないか。指標や仕様に基づく動作をする多国籍企業のほうが、すり合わせが上手ではないか。。。日本は、アナログ的な目に見えない仕様が必要な分野、職人技が必要な分野は、否応なく「すり合わせ」の局面が多く、上手にみられる。しかしながらJD(Job Description)による採用活動はできても組織編成や仕事の配分においては曖昧さが多い傾向がある。日本人同士で何事も決めれることも関係あるだろう。また人件費が基本的には固定費に計上されるため、仕事の範囲を明確化することは人件費の効率が悪いという側面もあるように感じる。多国籍企業は、異なる文化の人たちで構成されるため組織の仕様と従業員のJDを明確に決める必要がある。ここに、日本とそれ以外での「すり合わせ」の前提となる文化の事情の違いを見ることができる。

また、日本は、議論において、情報に基づくロジックよりも、主従関係や上下関係に基づく思考が根強い。極端な場合、論破できないときは上下関係で決着を図ろうとする。もちろん、人材育成的で友好的な主従関係やよき先輩後輩関係も多々みられ、若き時代にどれだけ先輩の人格に助けられたか、と感じることも多い。ただ一般論として、ここに日本と日本以外とで議論の前提に根本的な差があると思える。判断が難しい行間にあるような行動仕様などは組織のヒエラルキーで決めざるを得ない面は否定できないが、問題は議論など決定に至るプロセスだろう。欧米企業や多国籍企業は、新規採用のみならず社内組織の業務分担でもJDが徹底的に議論される。主従文化も多少はあるだろうが、組織のミッションもJDも明確で従業員は合理的に行動する。不合理を感じた時はルールを盾に徹底議論し、ダメと思えば転職する。

また、主従文化が自分のライン以外にも染み出して錯覚を生み出すことがある。そのため新たな価値を作るための新規組織発足などには、一定期間混乱が生じやすい。人間社会なので多少のことはあるものだが、潜在的なマウンティングに類する主従関係の押し付けは害でしかない。友好的に見える押しつけはたとえば「人たらし」的影響力などであるが、温かい環づくりに貢献もするが、若手の意見を妨げいわゆるヒラメ族を養殖し、建設的な議論を阻害することが多い。半導体時代も見てきたが、日本企業にはマネジメント手法に主従関係の乱用や錯覚が見られる。もちろん自身の人間力不足によるものもあり必ずしも公平な見方ではないこともあるが、このことが組織の在り方にも影響しているとすれば積もり積もって「失敗の本質」につながる可能性があるのだ。

半導体事業衰退の要因分析が主眼であるが、もうひとつ上の視点、もしくはインドを技術者として経験した視点から日本企業の戦略を俯瞰するとどうなるか。グローバルサウスが台頭する今日、インドに販売会社や製造会社しかおけない日本企業だとすれば、戦略としては片肺と思われる。生産財には必ず技術者が関与している。サービス事業にしてもITというキーワードでインドの技術者とのつながりは重要でメディアでも取り上げられている。インドでは転職が当たり前、優秀層は欧米に出る傾向とはいえ、若い技術人材がいるインドの大学や大学院と戦略的に「共通体験」「共感」をインドで持つことは非常に意義がある。日本の大学に行きたい、日本で働きたいといえば支援もしやすいだろう。日本企業もグローバル化は進んできたが、アメリカのようにインド人CEOは多くはいない。日本へのインド人観光客は増えたとしても企業内での融和は進んでいるようにはみえない。現に、そのことで悩む日本に住むインド人からよく相談を受けたものだ。インド人が優秀だから融和の方法をもっと考えるべきというのもあるが、企業内文化としては日本企業はあくまで日本の伝統文化中心である。この打破は結構困難だ。

日本人は、あるいは日本企業文化は主従関係を基本として思考し、日本以外は言動の論理性を基本としていること、インドのみならず海外との付き合いの中で傾向として感じてきたことだ。もちろんすべてにおいてと断言するつもりはない。

インド販売会社のあるインド人幹部に教わったことがある。

「日本人は、インド、中東など赤道帯近くの民族とは絶対に単独ではビジネスはできない、中東やアフリカとビジネスしたい場合は必ずインド人と一緒に。日本人は誠実一本やりで商談する傾向がある」

行動原理において、自分を優先するのか組織を優先するのか、の問題だろうか。あるいは自由度優先、合理性優先などの思考順序の問題だろうか、はたまたカーストなど死生観に基づくものなのだろうか、これは深すぎて追いきれないが。。。

下記のいくつかのエピソードで上記のことを検証してみたい。

  • JETROで聞いたサムソン韓国従業員のインド駐在実践方法の凄さ
  • どこか過保護な日本企業(ムンバイテロの影響もあり?)
  • 担当していない商品に関してインドの方々のLinkedInからの苦情
  • インド人部下vs日本人部下
  • 異なる事業場出身者で構成された組織

 

(つづく)


駆け出し編

垂直統合企業の半導体事業部門にて

松下電器の半導体部門である松下電子工業は1952年松下幸之助の技術戦略眼により設立された。

1952年12月オランダのフィリップスとの合弁で松下電子工業が発足、当初は真空管と電球、蛍光灯が中心

1957年5月半導体事業に参入

1993年5月フィリップスとの合弁を解消し100%松下電器傘下に

2015年富士通の子会社富士通セミコンダクターとパナソニックのシステムLSI事業の統合によりソシオネクスト発足

2019年パナソニックセミコンダクターソリューションズ(システムLSI事業以外)、台湾ヌヴォトンへ売却

上記流れでパナソニック半導体事業部門としては終焉したが、途中世界のTop10に入るなど奮闘はしてきた。のみならず、担当してきたアナログ信号処理LSIでも有数のシェアを誇り、NANDなどメモリー技術、オプティックス、高周波などデバイス技術でも世界の最先端を走っていた。システムLSIでもUniPhierというプラットフォームを開発するなどして技術戦略で長じていこうとはしてきた。

フィリップスとの合弁であり、定期会議もあり松下電器から独立して独自の戦略を展開できた部門もあったようだが、アナログ、ロジックなどシステム系に関しては松下電器のための半導体部門という色彩が強かった。デバイスに特長があり汎用性追求を可能にした部門か、カスタム開発で顧客システムに特長を出す部門かで色彩は決まっていたように思う。

1980年2月半導体事業本部半導体R&DセンターIC開発部に配属された。ICとはIntegrated Circuitの略であるが、このICの開発とはアナログICの開発を意味する。ほかにはマイコン開発部やロジック開発部、ディスクリート開発部などがあった。

当時は、様々な電子機器用の半導体開発が活発で、私はVTR用IC開発に携わった。据置用VTRに加え8mmムービー用への展開など開発ロードマップは百花繚乱といってもいいだろう。業務も忙しかったが、これが会社組織というものかと、まるで初めて都会に出たかのような昂揚感にまみれた日々だった。

VTRには磁気テープを巻き付けるシリンダがあり高速に回転しており、オーディオのカセットテープとはシステムの大きさも要求仕様も高度であった。複数の半導体をセットにしてセット事業部と共同で開発していった。この中の半導体の開発を半導体R&Dセンター内の複数の部署、マイコン開発、ロジック開発共同でプロジェクトを組んで開発を前に進めていったのである。仕様はセット事業部の方で決めていくので、半導体側で横連携する必要はあまりなかったが、ひとつの大きな連帯の中で前進している感覚はあった。その最大のドライバーは本社研究部門でありセット事業部であった。当時の本社研が中心となって要素技術のみならず分野の違う半導体をひとつのプラットフォームとして束ねたからこそできたのである。

VTR用半導体開発の世代も第3世代から第4世代への進んでいったが、ここで身近に見た問題点のひとつは、半導体システムの進化要求に半導体プロセス開発の追従が振り回されたことだ。もちろん、半導体プロセス技術者は優秀な人々で構成されていた。しかしながら、この時代、機器のシェア争いも厳しく機器システム要求を半導体設計者が受け取り、その仕様を実現しようとしたときにプロセスのばらつきを吸収できるかどうかまで十分検討できない(時間がない、もしくは部門間「すり合わせ」に慣れていない、ことによる)状況が生まれる。結果、量産開始後に半導体の歩留まりを向上させるべく設計者が工場に張り付かざるを得ない状態になっていった。しかも、設計変更に次ぐ設計変更で現場は疲弊していった。

もうひとつの問題点は、据置用VTR2種類とムービー用でシステム要求仕様に応える必要があり、2種類のプロセスで何種類かの設計コアが生まれたことだ。このことは後々、開発競争観点ではボディーブローとして効いていく。日程要求など言い訳はあったものの、我々の半導体設計戦略としてモジュラー化を進めて資産活用しやすくする必要があった。プロセスが進化すれば、モジュラーごとに決めた仕様によって回路を更新する必要はあるが大まかなトポロジー(回路構成)はそのままで行けたはずだ。どちらかといえば、人材育成を鑑み、LSIを最初から組み上げるOJTに力点をおいていたような気がする。のちにシミュレータをMentorからCadenceに変更し、MatLabも導入してモジュールとシステム連携しながらも別々に設計していくスタイルに変わっていくが、その前は大規模化に向けた設計上の戦術戦略思考が未熟だったということだろう。

 

教訓:大規模システムへの変化が予想されていた。ゆえに、その時代の予測される設計スタイルからバックキャストして隊列をどう整えるか議論すべきだった。

若き日の自分自身の無能は少しヨコにおかしていただいて、この教訓における「議論ができなかった理由」を分析すると、設計現場、本社半導体研究所、CAD(UCバークレー出身者もいた)などで一体となった半導体デザイン戦略会議がなく、各組織個別的であったことがあげられる。一方若き技術者は目の前のこと、半導体技術を覚えることに必死だったとはいうものの、大学で先端技術の出どころぐらいは勉強してきたわけだから、課題意識ぐらい芽生えないといけなかったのだろう。この課題意識を刺激しあうのは、組織内の組織間の啓発もさることながら外部から来た目があることが望ましい。当時は転職はマイナーで、生え抜き意識も強かった。若き自分自身も昭和の風土が沁みついていただろう。

 

さらに、培った半導体技術をもとに、対内セット事業部への納入時期から半年以上開けることを条件に拡販にも力を入れていくのだが、ここでも隊列に類する戦術の未熟が露呈していく。(つづく)

 


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