Blog岳道を行く

書とジェームス・モリソン

小学校時代に通っていた書道教室「天真」と同じ教室に通っていた友人の作品が毎日書道展に展示されているというので行ってみた。友人は大成し現在も書道家の道を歩んでいる。自分自身は、習字そのものは好きであったが、基本的に父の勧めで通い始めた。行けば友達がいる、ぐらいのモチベーションだったかもしれないが「払い」がうまく書けるようになった時の感動は覚えている。

小学校から高校でも習字の授業があった。書の気とか心を感じるというよりは、技量というプロセス、出来映えというゴールが主な目的であったような気がしている。が、書道を究める人たちは、曰く「守破離」の道を歩むものらしい。書道展では多くの作品があり圧倒されたのだが、書道家の気を感じることはあれ、その技量を感じるなどは口に出すのもはばかられる。歩いていると、見学者からの「濃淡が・・・」などの話を小耳にはさんだが、たとえば濃淡に込められた作者の意図がなんであるかまではわからない。

自分なりに感じることをベースに気取って言えば、意図というよりは波動である。道を歩む人の人生や気概を感じ、文化とか伝統との対話を感じ取ることで作者と鑑賞者の間の多種多様な心の波動につながっていくようなものかもしれない。

別の芸術であるが、風景画家のジェームス・モリソン、以前から好きな画家であったが、ドキュメンタリー映画「Eye of the storm」でも感動的な制作過程をみることができ、おりしも鑑賞してきた書の世界に通じるものを感じた。特に、雲の描き方に連想させるものがあった。ちなみに絵筆(ブラシ)はフランスの専門店「Sennelier」で購入していたそうである。氏は絵筆に関して「(こういうものが欲しい)形状を維持できる・・・瓶一杯の油に浸しても形を保つような。」と語っていた。書道でもくだんの友人曰く「弘法筆を選ばす、にあらず、えらぶんです」と言っていたが、波動を伝える筆という媒体も心技体の一部なのだろうと思った。

私が取り組んできた電子工学、集積回路技術にも「これは芸術か」と思える世界がある。もちろんそこには、平賀源内でもないので筆などない。あるのは、回路図(設計図)と結果として出るデータと熱雑音など見えない世界との「せめぎあい」である。回路動作とトランジスタ内のキャリアのふるまい。エンジニアにとって楽しい世界である。芸術的な回路技術としてはSwitched Capacitor FilterとLeapfrog Filterが最も印象深い。回路技術の中でも上級中の上級クラスの回路構成で、Leapfrog Filterは一度集積化に挑戦したが、半導体素子の高周波特性により回路全体が発振して日程制約もあり量産化は及ぼなかった。(Switched Capacitor Filterは量産化に成功している)

芸術と工学、立場は違えど、哲学と科学が同じ精神世界で語られたようなものも見いだせる。自分の右脳の一部のシナプスだけが喜んでいる気もするが、何かを発見というか感じ取ることができた喜びではある。


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