社会システム研究

戦争と産業

戦争で繁栄する産業を書きたいわけではない。グローバル化した経済において新たな秩序を模索し、その秩序による戦争抑止を書きたい。戦争と経済と書くと、経済の専門家でもなければ、ましてや金融などわかっているわけではないので羊頭狗肉となる。経済の基本となるものは産業であり、少しはものづくり産業は経験してきたので「戦争と産業」というタイトルである。目的は産業を戦争抑止の観点で考察してみることだ。

今は経済や産業のボーダーレス化が進んでいる。恩恵も多々あるが、静かなる侵略の道具にもなってしまっている。侵略と書くと失礼かもしれないし彼らに悪気はないのかもしれないが、専制国家を否定する立場としては侵略に映る。この立場ははっきりしておきたい。また、欧州でも日本でも隣国である国に対して戦争抑止のための制裁など無意味であることも学びつつある。彼らは国として弱肉強食、強奪を是としながらも、個々の人には普通の血が流れている。人情も熱いと聞く。

専制国家からみれば、自由民主主義国家は「自由という名の専制」であるらしい。このことも理解したうえで、立場が違うもの同士、どちらかが月や火星に移住できるわけでもなく、考え方が違うことを認めたうえで、命、人権、領土に関する最低限の合意形成をしなければならないと思う。そうすればミサイル作るお金で国民においしいものを食べさせてあげれれるはずだ。

いろいろな価値観がある中で各国の産業の自立こそが平和のための新秩序確立につながるのではないかと思う。

 

人はなぜ戦争をするのか。

今も、ウクライナやガザ地区での悲劇、、、ほかにも多数あるが、遠い昔から史実の資料でうかがい知れるものから、昨今はSNS含むメディアから情報を知るに至っている。戦火にさらされた悲嘆を映像で知っても、No warの声は戦火の為政者には届かない。いや届いてはいるだろう、為政者の思想・論理が、届く情報を命と人権の尊重という正義から遠ざける。

戦争の動機を分類してみたい。

・国富のための権益確保(石油、鉱物資源など)⇒日本(太平洋戦争前) etc

・近隣諸国や同胞の開放という名の大義名分(実は権益確保だったりする)⇒ロシア、日本(太平洋戦争前) etc

・自国第1主義⇒ドイツ(ナチス)

・領土⇒イスラエルとパレスチナ

すべて「権益」が絡んでいる。

権益のための紛争は、人々の暮らしの基本である衣食住が満たされないことがきっかけになっていることが多いようだ。飢饉、強奪などをきっかけに、古くは日本でも豪族たちの争いがあり、戦国時代から江戸時代に明治時代に至ってルール作りの歴史を経てきている。ルールはあってもどうしても紛争に至る場合は、世界的にみても武器が決め手になる。矢じりや投石にはじまり昨今は核まで振りかざす。

問題は、自国の権益意識が上回り、命や人権の尊重を無視した実行手段に至ることだ。人の命を食物連鎖のひとつと言わんばかりの弱肉強食の国が後を絶たない。その背景には、宗教という倫理観があると説く人もいれば、広大な土地を持つ国の統治には専制政治しかないのだ、と説く人もいる。戦争は表だってしていないとしても、領土領海を経済力を背景にじわじわ浸食する国もある。「いや別に悪いことはしてませんよ」と言うため欧州に遊びに行く首脳もいるのだ。

月での資源確保もルール作りが急務と言われているが、地球上の国際法無視の挙動に歯止めがかけられない今、まずなぜ歯止めがかけられないのか、専制国家も自由民主主義国家も考えるべくテーブルにつくべきだ。各国が批准できる国際法改正と罰則作りが急務と思うが、できないのは、日本含め諸大国がかつては国際ルール無視の歴史があるからなのだろうか。

このあたりは、ユヴァルハラリなど歴史学者や哲学者の積極的な改善手法案も期待したい。

一方、権益の背景には、自国の産業、は切っても切れない関係があるように思える。

 

一身独立して一国独立する

福沢諭吉の言葉である。司馬遼太郎の「坂の上の雲」でも、秋山兄弟が好んで引用する場面がある。秋山兄弟が活躍した明治は、帝国主義の列強に対抗して、税金の半分を軍事に費やし、富国強兵を図った時代だった。ロシアの極東進出に対抗するため日英同盟を結び、ギリギリの外交努力も潰えて開戦に至ったのであるが、このころの日本を見る列強の目と坂本龍馬を支援したトーマスグラバーらの目から見た日本人の気概には大きな差があるように思えるが、一身独立の気概の基盤となったものは対帝国主義で構図はかわらない。

また、司馬遼太郎は、日露戦の勝利が太平洋戦争開戦の伏線にあるとするが、太平洋戦争に至るまで、戦後、高度成長期、そして1986年の日米半導体協定以降、それぞれの日本人の一身独立にはどのような変化があったのだろうか。

大きな流れとしては、軍備による一身独立(明治)、軍を持つ資格がないとされた戦後、半導体や電機、車などの産業の隆盛による一身独立、日米半導体協定によってくじかれた半導体産業とその後の失われた30年、といううねりがみてとれる。

戦後の軍備解体は平和へのうねりでもあったので歓迎すべき出来事ではあるものの、平和への希求か戦争かの両極ではなく、主体性の有無という二律で考えるべき命題だろう。日米半導体協定などは、別の意味での軍備解体事件と思えるが、これもいかに一身独立できていたのかの視点で考えるべき命題であった。主導した現在の同盟国をやり玉に挙げる風潮もあるが、否定していかないと、他責の習性が根付くだけだろう。

 

世界平和憲法

憂えるばかりで、命の犠牲に有効な手が打てない。現下の各所の努力を尊重しつつも、基本は憂えるだけの我々である。

世界平和憲法を制定し、批准した国しか産業のグローバルネットワークに参加できない、各国にそんな覚悟が必要ではないか。世界的な法治こそ最大の解決策である。簡単なことではない。今も某国から天然ガスを購入している。制裁は空回りし有効ではない。憎しみの連鎖で何十年と続く戦争もある。法治には宗教的な背景もある。しかしながら、世界平和憲法制定のための研究を始めなければ、いつまでも憂いのみで終わる。50年だろうか100年だろうか、世界平和憲法で命と人権尊重に有無を言わせない覚悟を各国が持つしかないと思われる。認めたくなければ自国内で閉じて為政すればいい。人権的な心配もあるが、干渉で大殺戮が勃発するよりましだ。間違っているだろうか。

 


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