ChatGPTを使ってみた

ChatGPTを使ってみた

専門外のことでわかりにくいことがあるため、自分で調べたことが正しいかどうかChatGPTを使ってみた。その感想である。文章の自然さは報道されているとおりで、昔の翻訳アプリのような違和感はほとんどなかった。コピペで論文への掲載など社会常識に反することは論外として以下のケースで考えてみる。

ケース1:専門外のことでスピーディに明確にしたい/確認したい。

自分が培ってきた専門や仕事に一定の自負がある場合この使い方はOKと思う。特に急ぐ場合。急がない場合や若手がひとつひとつ積み上げていく価値がある場合はあまり使わないほうがいいが、考えた結果が、ChatGPTと比較してどうなのか、という使い方はある。

しかしながら、時間がある場合は、先生、職場同僚、友人と議論したほうがよい。本題以外の発見がある可能性やコミュニケーション能力向上にとってこのほうが格段よい。

ケース2:全く初めての分野で中長期的に能力を高める必要がある場合。

社会人⇒ChatGPT使って必要最低限の情報を埋めるのか、思考プロセス補助に使うのか、など戦略観で判断すべきである。

高校生・大学生⇒成長段階にある者がやたら使うことは危険である。成長段階では使う使わないの判断は一般的に難しい。

小中学生⇒使用判断は教師にゆだねられるとしても、この段階の使用は断固反対である。先生の教育で知識的にも経験値的にも生徒へ好影響を生み出すことを第1に考えるべき。ChatGPTは「共感」については画一的、多様な人格・能力を持つ人間を育てることはできない。私の経験でも先生の人柄は人生の糧になっている。また、別の言い方をすれば、英語習い始めに英訳ソフトを使わせる教師はいないだろう(※)

ケース3:介護ロボットなど

忙しい若手に代わって、おじいちゃんおばあちゃんへの刺激に使うのは非常にいい。自分もそのうちお世話になると思う。音声認識含め介護ロボットのみならず、レストランなどで料理のの説明をしてくれる給仕ロボットにも組み込み、質問に答えてくれるのもいいかも。

ケース4:人手不足

国会答弁書作成に検討されているという。公務員や教師などなど驚異的な残業を強いられている人々の力になるのは大賛成であるが、懸念もある。完璧とはいえず日々議論すべき「法律とその解釈」に基づきChatGPTで画一的に処理されることは、社会弱者をさらに追い詰める危険性はないか。公務員も人間、忙しさの中で「きまりがあるので」に加え「ChatGPTが言うので」が出てくるとすれば不信が加速し課題解決が減速する。使い方を間違えると一昔前に比べ顧客意識が格段に磨かれた公務員にとってもプラスにはならない。

 

総じて言えば、工数削減や人手不足対策でのChatGPT活用は大賛成であるが、能力を伸ばすために考える力をつけさせる教育現場には一定の規範が必要と思う。また、どんな場合でも人との交流の劣化を生み出してしまうと組織力、社会力の劣化のリスクはありそうだ。

 

※中1のときの英語の先生は、H.Y先生。印象に残っているのは「辞書を引いたら必ず赤線を引くこと、勉強すればするほど各ページにその赤線があってそれが自信になる。」

 

 

中1から使っている辞書

電子辞書とどちらがいいか・・・は使う側の志向によるだろう。

 

 

 


木星探査機とK-PAX

木星探査機が打ち上げられた。2031年に到着し、エウロパ、ガニメデ、カリストの3つの衛星で地球外生命の探索などをするそうである。衛星を周回しながら探査機から衛星の地表までの距離を計測することで衛星内部に深い海があるかどうかわかるらしい。木星との間の潮汐でゴムボールのように”ぶよんぶよん”するらしい。地球と月との関係で発生する満潮・干潮が、木星の衛星の地底で起こって地表に影響が出るとのこと。地震で地面が動くのは理解できても、固い地面がぶよぶよとは不思議極まりない。

この打ち上げにあわせて、ケビン・スペイシー、ジェフ・ブリッジスが共演する映画「K-PAX光の旅人」を観た。20年ほど前にも観たが、ジョディ・フォスターの「コンタクト」と並び宇宙系で最も好きな映画だ。ケビン・スペイシー扮する琴座K-PAXという惑星からきた宇宙人は、あるトラウマを抱えた人の肉体を借りて地球の状況を報告するのだという。もっともこの「肉体を借りて」と「トラウマ」は最後のほうで判明する。家族、コミュニティ、社会規範などもないK-PAX人が、家族を不当に奪われた人にいわば憑依するわけだが、その言動が人類の現在地を問いかける映画だと感じた。

つまり、K-PAX人は、人間関係すべてにドライで社会規範など不要で、地球人がなぜいろいろ争っているのか理解できないようである。この姿が地球人とは対極にうつるが、地球上のさまざまな紛争を乗り越えてこの世界へ行きつけるのかは疑問である。しかしながら、浦道を巡ればふとこのK-PAX人の在り方に共感が生まれるのかもしれない。表通りの喧騒から離れてふと裏通りに入りたくなるのもそうなのかもしれない。

この映画、欧米人の感じ方と日本人の感じ方とでは違うのだろうか・・・


ガラパコス化の原因と対策案

ガラパコスの話は、小中学校時代の宇宙への夢にさかのぼる。

中学高校時代は、「将来はNASAで働く」ことを目標にしていた。アポロ計画に憧れていたこともあるが海外で活躍することをイメージしていた。電子機器をさわることも好きだったので、大学は電気工学の道に進み電子物性の研究室に所属した。大学4年の夏休みに松下電器音響研究所のインターンに行き、不出来な学生ながらその後入社の運びになった。回路工学の鉄則、インピーダンスの低い所を電流は流れる、自分も同じだった。大学院に進学してその後はNASAを目指す、はすっかり頭から消えていた。

インターンの3週間でオーディオの「アンビエンス効果」の開発をみせてもらったり、工場でカーボン塗料を塗るボリュームの製造工程をみせてもらい自分でも試作させてもらったりした。当時はまだ、音量調整のための電子ボリュームはなく、シート状のカーボン抵抗に接点をスライドさせての音量調整だった。このボリュームで音質に影響にある-120dBmのひずみが発生するという。「聞こえるようになるんだよ」という指導員の方の話に大学とは違う迫力を感じたものだ。朝8時出勤ながら毎日が夢のような3週間だったことを憶えている。しかも、社員さんの独身寮に入り昼食券ももらって3食無料に加え日当800円をもらえた。この800円はお年玉のようにうれしく、土日は道頓堀の「くいだおれ」に行き、安くておいしいものを食べた。くいだおれ人形の前にしばし佇んだことは一生忘れない。

くいだおれ太郎がお出迎え!道頓堀、中座くいだおれビル | J-TRIP Smart Magazine 関西くいだおれ太郎(ネットから拝借)

 

入社後、時代は高度成長期の後半、電子機器、半導体の開発に夢中で仕事をしていた。この時期を経て、そののちに、日本の携帯電話開発にガラパコスなどと揶揄される時代がくるなど想像だにしなかった。世に言うガラケー、ガラパコス携帯のことである。いいものを開発する、それしか頭になかった。このような夢中が技術者としての自信にもなったが、お客様に製品をどう使っていただけるかという視点の不足にもつながっていったのかもしれない。いわゆるProduct outの発想である。

その後、コストダウン要求から製造は海外となり、日本は開発、つくるのはアジアという構図が、日本企業における慢心に繋がっていったのではないかとも思える。日本人は英語が苦手というコミュニケーション力の問題もあるかもしれないが、「ガラパコス」になっていった根底には、良くも悪くも海に守られた日本人のマインドにあったのではないか。経済的にも豊かになり、このマインドを慢心というのは言い過ぎだとしても、一緒に仕事する海外の人たちの考え方を学ぶ姿勢は少なかったと思われる。

Product out発想が常態化すると、製品を使っていただけるお客様視点での検討や開発工程・製造工程の合理化を図るための標準化のリーダーシップをとれなくなるのである。「技術至上主義」と「自前主義」の蔓延にもつながっていった。ガラケーでの経験を経てDVDやBDでの標準化は日本企業は奮闘したが、歴史的にみて、標準化や隊列を整える業界リーダーシップをとる能力は不足していたのかもしれない。

冒頭で、少年時代の夢と「くいだおれ」の思い出を書いた。回顧録を書きたかったわけではない。NASAへの夢を忘れて電子機器メーカーへ、このことは決して否定されるべきではない。が、会社では海外駐在も経験させてもらったものの、この大学4年のときの自身の動きはガラパコス化の緒についた、と思い出されるのだ。

昨今では、野球でもサッカーでも海外で活躍する日本選手が増えた。彼らのマインドは脱ガラパコス・・・という気負いではないにしても、それを体現している。アカデミックの世界でも、ビジネスでも海外を目指す人は増えた。友人でも、博士課程で海外の大学に入った人もいるし、アートの世界でNYに渡った人もいる。要はやる気の問題ではある。しかしながら、「右に同じ」が慣習の日本人マインドを徐々に変えていくために、若い世代を社会全体が後押しできないだろうか。

たとえば、選抜試験があっても、高校であれば1年間無償で海外留学、大学であれば2年間無償で海外留学して論文の成績次第で4年間の授業料免除。会社でもそうだ、TOEICの点数が高いなど外国語で活躍できる人にインセンティブをあげてもいい。日本社会はどことなく日本にいて安寧に過ごすことに安定点を見出す傾向にある。ここを打破して海外での学びや仕事の経験者を増やせば脱ガラパコスに貢献し、社会システムにおいて世界の流れに取り残されるリスクを少しでも回避できるのではないか。


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